琴弾岩周辺

矢掛と真備の境付近に、吉備真備公ゆかりの岩があります。

486号線と並行して流れる小田川(というか、小田川沿いに486線が整備されたのですが・・・)の向こう岸にあるので、ちょっと寄ってみました。

これです。川岸にせり出すような感じでドンとある岩、これが琴弾岩(コトヒキイワ)と言われている岩です。





これが琴弾岩の案内板です。

奈良時代に右大臣として中央政界で活躍した吉備真備公が、晩年父祖の地に帰り、中秋の名月の夜に、小田川に臨むこの岩の上で琴を弾かれたと伝えられているところから琴弾岩と呼ばれている。
昭和24年以来、町民は毎年中秋の名月の夜にこの岩に集い、真備公の故事にちなんで弾琴祭(だんきんさい)を催し、岩上で琴・尺八を演奏して公の遺徳をしのんでいる。






川岸にせり出すといってしまいましたが、実は岩の下にも小路が整備されています。この岩、このあたりでは目立って大きい岩で、何らかの謂れがあってしかるべきだと思いました。吉備真備の時代であればそれは相当に存在感の大きい岩だったことでしょう。




これは道路側から撮った写真です。奥にあるのが琴弾岩です。






琴弾岩の上から撮った写真です。吉備真備公が見た景色とはずいぶんと変わっているのでしょうが、同じ風景を見たと思うとなんだか感慨深いものがありました。






これは琴弾岩の脇にあった記念碑です。






昭和廿四已丑六月予賦彈琴石詩
中秋邑人景仰公徳設彈琴之會
入力するのにも困ってしまいまいた。なんて書いてあるか、意味わかりますでしょうか・・・?
上の案内板に書いてあるようなことが書かれてるのだと思います。たぶん。






これは、先ほどの琴弾岩の案内板と並んで立てられていた猿掛城跡の案内板です。猿掛城跡と書かれてはいますが、猿掛城はこの道をさらに西へ数百メートル進んだところにある登り口から山道を登ったところにあるそうです。
小田川の右岸にそびえる猿掛山(標高230m)に築かれていた中世の連郭式(れんかくしき)山城遺構である。山頂の本丸跡には六壇からなる郭(くるわ)が南北に連なり、石垣・土塁・井戸・堀切(ほりきり)・出丸(でまる)などの遺構とともに、備中有数の山城の威容をよくとどめている。
山陽道の要衝に位置するこの城は、南北朝時代から室町時代にかけて備中で最も有力な国衆(くにしゅう)として活躍し、備中守護細川氏のもとで守護代をつとめた庄氏の居城であった。その後天文22年(1553年)ごろから成羽城主三村氏の支配するところとなったが、天正3年(1575年)に起こった備中兵乱で三村氏が滅ぶと、毛利元就の六男元清が在城した。同10年、羽柴秀吉による高松城水攻めのときには、毛利勢の総大将毛利輝元が本陣を置いたこともある。その後、元清は茶臼山城(矢掛町東三成)を築いて移り、この城には重臣宍戸隆家を置いて守らせていたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の役後まもなく廃城となった。
写真から文章を起こしていますので、若干間違いがあるかもしれません。。。
とにかく、戦国時代には歴史の表舞台にこそ出ては来ないものの、このあたりが要衝であったことはうかがい知ることができると思います。
ちなみに、この案内板に出てくる茶臼山城には羽柴秀吉が複数回にわたって立ち寄った史実があるということで、このあたりはそういう意味でも大きな歴史的役割を果たしていたことになります。

当サイトでも頻繁に出てくる吉備真備は平安時代ですからこの案内板に出てくる庄氏や毛利氏は吉備真備よりは相当後になりますね。

吉備真備のふるさと

矢掛中心部

矢掛郊外

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